2017.08.01

僕は、今書いている小説を9月31日までに応募。もう応募フォームは公開された。
去年から構想している小説を来年の3月31日に応募を予定している。(これはどうかわからないが、今のが終わり次第、着手する)
今書いているのは上限が六万字までだが、最低の二万八千字を越えればいいかなと思えてきた。形にして秩序を与えることが重要だと思うから、文字数はあまりこだわる必要はないと思うのだ。とにかく文字数のは二万八千字をまず目指して、前進して、形にしてみる。それでもいいと思った。今まで六万字という文字の量に囚われ過ぎていた。だから書くのも最初から書くのじゃなくて、途中のやつを考えて書いたりとか、終わりは全く考えていなかったり、バラバラだった。

レンドルミンマイスリーを飲んで、ハウスっぽい音楽を聴いていたら、過敏な感覚系統をただただ癒してくれた。その前は、焦燥と強迫が強かったのに。音楽は時間の芸術であり、没入すぎると時間を取られていく感じがするのだが、これなら何時間でも聴いていられそうだと思った。

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2017.07.29

私は今月の16日に強迫性障害といわれ、この病気はこだわり方が人によってそれぞれ違うらしいですが、一つの例に「正確さ・対称性」というのがあって、物事が正確かどうかとか対称性にものすごくこだわるらしいです。僕は小説を書いていて、やはり正確でないといけないし対称性を持ってないといけないという思いがあり、たくさんの本を読まなければなりません。それは小説を書くことを仕事にしている人にとっては、当たり前のことであり、何かを書くという際に参考文献とか必ず読まなければならないと思うのですが、僕は少しそれがしんどいと思う時がある。もう嫌だよ!って思う時がある。

自分の頭の中で全部まとめて一つの形にできてしまえないだろうか?そんなのは考えはバカなことだ。僕は穴をとにかく埋めていかなければなりません。それは小説を書こうという時に必ず目の前に空く大きな穴です。それをジャンプで飛び越えるわけにはいかない。そうなったら僕にとって小説というものは嘘になるし、穴に落っこちて、書くことはできないでしょう。その穴は、小説を書いている最中にもどんどん空いていきます。

今日、「ピエドラ川のほとりで泣いた」を読んでいて「真理は信仰のあるところに存在する。108」と書いてありました。ジャン・クリストフのロマン・ロランも「私は文学の作品を書くのではない。信仰の作品を書くのである」と言っています。

僕の場合は、キリスト教的な意味合いを含まないですが、僕もやはり信仰の作品が書きたいです。自分がその作品に対して信仰できる作品を書きたいです。そのためには、やはり考えなければならないのです。とにかく穴を埋めていかなければならない。

僕はでも外部の正確さによる真理というよりは、その外部の正確さによって作り上げられる作品という真理にこそ強迫的になっているのかもしれない。

正確さとか対称性に強くこだわるというのは、自分の真理に対して誠実であるということだと思うんです。

2017.07.28

現在17時過ぎ。昨日は結局二千字しか書くことができませんでした。計画は立てた日に蹉跌してしまいました。図書館で本を借りてこようと思っていたのですが、図書館も休館でした。

なので、これから自転車で行ってきたいと思います。今日は一文字も小説を書いていません。

ちょうど今、Kindleで、アルケミストを読み終えました。

「人の心はいつでもその人を助けるのですか?と少年は錬金術師に聞いた。「ほとんどは、夢を実現しようとしている人の場合だけだ。しかし、人の心は子供や酔払いや年寄りも助ける」」と書いてありました。僕は夢を実現しようとしており、夢を実現しようとするために奮闘している小説の中に登場させたいと思っていました。

酔っ払いも助けると書いてあり、僕は今日のお昼過ぎからまさに酔っ払っていました。得体の知れない虚無感が入り込んでくるので、僕は自分の向かっていた机を人差し指と中指で素早く叩き、我慢できずに、ハイボールを冷蔵庫から取り出してきて、一缶飲みました。何か考えついたと思ったら、数秒後かにすぐさま虚無になっていく。その感覚が嫌でしょうがなく、自分の頭を引っ掻き、髪の毛をむしり、さらに少し残っていた電気ブランを持ってきて、飲んで少し眠ってしまいました。どうでもいい話ですね。ですが、残るところなく全てが空虚になっていくんです。それに抗うにはどうしたらいいのだろう。相対化の坩堝の今の時代では難しいのかもしれない。これからどんどん「自分」というものがなくなっていくんじゃないだろうか。厳しくなっていくんじゃないだろうか。

他人が呟いた、芥川賞の影裏の描写について呟いていたツイートを見て焦った。その瞬間、自分が抹消されたような気分になるんです。僕はどろどろとしているがポップな音楽が聴きたくなった。音楽にしがみつきたくなる。けど、それもまた他人の表現で、僕の表現じゃない。僕はない。

僕はアルケミストを読んでいて、物語の流れを頭の中に浸透させていきました。やっぱり僕は小説というものが読みにくくなっていると感じます。雰囲気で読んでいるという感じが強く、場面を理解していない、昔はもっと筋を理解しようと、細密に読もうと心がけていましたが、今はなんか頭の中が台風の中の風船みたいになっていて、集中できないんですよね。最初アルケミストを読んだ時は場面を理解できていましたが、二度目は全く理解できず、なんで風になろうとしたのかわかりませんでした。

僕は錬金術師のような、意識の指導者を小説に登場させたくて、この本を読みました。錬金術師とは違いますが、この本の錬金術師のような仕方で人物に関わってくる感じです。

アルケミストを読んでいる最中に僕はふと、「ドストエフスキーの悪霊」というDVDをオークションで落札しました。僕は活字でしか悪霊を読んだことがないのですが、そこに出てくる人物は僕らと同じように肉体を持っているはずで、それを僕は見たいと思ったのです。

最近僕はなんか離人感がするので、僕は悪霊のDVDに出てくる動いている人物に自分を投影したいと思っています。

図書館で「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」をなどを借りて来ました。裏のカバーに「病を治す力を持つ修道士」と書いてあり、僕は「病を治す力」の人物の設定をちょうど考えていたので、どういう風に病を治すのかが気になります。今はもう深夜なので、明日起きたら読むつもりです。今日は小説を一文字も書けなかったが、メモ帳に断片のメモをした。

僕は小説を書かなければ何もすることはできないのに、それができないのだから今日は譴責すべき一日だった。 譴責されているから眠ることが困難だ。僕はこのまま起きていながら小説を書くべきだろうか。きっと書いたほうがいいに決まっている。だってそれだけが僕が進んでいることになるんだから。また一万字にも達してない乱雑な小説を確認するが、それを見たら少しでも書かなきゃってなった。でも僕はそれを放棄して、明日に行く。それは一番愛らしいものなんだろうけど!

明日はまず本を読むことから始める。「書くということ」がどういうことがわかっていない僕は、決して安住することができず、その安住し得ない実存を書くことで少しは譴責などを躱しているつもりでも、「小説を完成させていない」という観念はどうすることもできないから、僕は加速するしかないんです。これから加速していきます。そして何としても完成させたいです。

 

2017.07.27

僕は現在、新人賞に応募する小説を書いていますが、書き慣れていないせいか難航しています。まず、稚拙でもいいからバババッと書いてしまい、それから推敲する際に直していけばいいかなって思いますが、僕の一日は小説というものに全て費やさなくてはならないのですが、小説をずっと書いているのも疲れてしまうし、時間の有効な使い方ではないと思うので、図書館で本も借りて来て読んで勉強するのも必要です。

今日は、ふと小説を書いていて、パウロ・コエーリョの「アルケミスト」が頭に浮かんだんです。以前読了して、自己実現というテーマがまさしく重なるなと思ったし、参考になるなと思ったんです。だからこれから借りてくるつもりですが、まだ読んだことのない「星の巡礼」と「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」という本も借りて来ようと思います。

あと、「植物学」の本。「植物」というのを一つのモチーフにすることを思い浮かび、でも僕は植物について何も知ってはいないので借りて来なくては語れません。

とりあえず、毎日五千字は書くということを決めたいと思います。新人賞は六万字まで大丈夫なので、十二日あれば一応は文字数は足りることになりますが、本当に五千字書けるかどうかわかりません。もしかしたら今日でその計画は蹉跌してしまうかもしれません。だから、僕はこの場所を借りて、どうだったのか文章を書こうと思いました。

今日なんとなく以前購入して、家にあった「職業としての小説家」という文庫本を少しめくっていました。

そこには「一日はあくまで一日であり、いっぺんにまとめて二、三日をこなしてしまうわけにはいきません。184」と書かれていました。僕は二、三日をいっぺんにこなそうとしているのかもしれない、つんのめりになっているのかもしれないと思いました。「分裂の症状とは、未来を先取りしようとして起こる」というようなことをどこかの本で読んだことがありますが、まさしく僕は分裂しているように思います。僕は「小説家になる」ことにあまりにも囚われすぎて、小説を書くという一番肝心なことができていなかったのです。

「小説家の基本は、物語を語ることです。そして物語を語るというのは、言い換えれば、意識の下部に自ら下っていくことです。心の闇の底に下降していくことです。193」とも書いてありました。

本当のことを言うと、僕は意識の下部に下っていくこと、心の闇の底に下降していくと言う作業に疲れました。なぜなら、それは毎日のように絶えず頭の中で行われているものだからです。今の本当の気持ちとしては、軽くなりたいという気持ちです。だけど、僕はこれから自転車を漕いで、下降していかなくてはなりません。本を読むというのも一種の下降の作業だと僕は思います。僕には日々の全てが下降していくということなのです。小説を発表するまでは、これは耐えるしかないと思います。小説を発表していないから苦しいのです。

僕は時よりタバコが吸いたくなります。今も三日前に買ったケントが目にとまりました。タバコの先から出る副流煙は燃焼して出てくるものなので、温度が高く、空気より比重が軽いため、上に上がっていく。僕はその煙に何か憧憬のようなものを感じる。

今が重すぎる。過去に物事を整理し、きちんと出力して来なかった罰だ。

明日も重すぎる。僕は這いつくばっている下に流れている冷たい煙ではなく、這いつくばっている上に上がれない鬱々とした熱い煙だ。

息を吸って吐くように、小説を書いて、上に上がっていければいい。